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千葉地方裁判所 昭和56年(わ)913号 判決 1983年1月11日

主文

被告人を罰金二〇万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金二、〇〇〇円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五四年一月三一日午後四時二〇分ころ、業務として大型貨物自動車を運転し、千葉県道五一二号線を千葉県習志野市大久保方面から同県船橋市宮本方面に向け進行して、同市前原西一丁目三六番八号先の信号機によつて交通整理の行われている十字形交差点にさしかかり、交通渋滞のため同交差点の出口に設けられている横断歩道の交差点内側直前に停止し、進行する機会を待つているうち、しばらくして先行車が進行したので発進しようとしたが、右停止場所は対面信号機の表示が見えない地点であり、また交通渋滞の際は自転車に乗つている者も横断歩道を通行することが予想されたので、このような場合、自動車運転者としては、前方の横断歩道を横断する歩行者や自転車乗りの有無を確認して発進すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、一人の歩行者が右から左に横断して、自車の左側を後方に向け歩行して行くのを見ただけで、先行車との間隔が開いたことに気をとられ、その後の横断者の有無を十分確認しないで発進した過失により、おりから歩行者用信号機が青色の燈火を表示しているのに従い子供用二輪自転車に乗つて右横断歩道を右から左に横断を始め、道路左側に達しようとしていた深沢雄一(当時七年)に気づかず、自車左前部付近を右自転車に衝突させて同人を路上に転倒させたうえ、その右上腕部外側付近を自車左後輪で轢き、よつて同人に対し加療約一〇か月間を要する右上腕骨骨折、右上肢皮膚剥奪創等の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)(省略)

(有罪認定理由の補足)

第一、本件の審理経過

一、本件は、昭和五四年一〇月二六日当庁に起訴され、昭和五六年四月二四日当庁第一刑事部(以下旧審という。)は、本件公訴事実につき、被告人は、前判示日時、同判示の「横断歩道の直前に停止した後発進するにあたり、同交差点の対面信号の表示に注意するとともに、自車直前の横断歩道を横断する者の有無及び動静に留意し、その安全を確認して発進すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、前車の動きに気をとられ、右信号機の表示に注意せず、かつ、横断者の有無等その安全確認不十分のまま漫然時速約二、三キロメートルで発進した過失により、右横断歩道を信号に従い右から左に横断中の深沢雄一(当時七年)運転の自転車に気がつかず、同車に自車左前部を衝突転倒させたうえ、その右腕を左後輪で轢過し」よつて同人に前判示の傷害を負わせたという本位的訴因を排斥し、被告人は、前判示日時、同判示の「横断歩道の直前に停止した後発進するにあたり、自車の周辺を注視し、歩行者、自転車等の有無及び動静に留意し、その安全を確認して発進すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、自転車等の有無等その安全確認不十分のまま漫然時速約二、三キロメートルで発進した過失により、自車左方にいた深沢雄一(当時七年)運転の自転車に気づかず、同車に自車左側部を衝突転倒させ、その右腕を左後輪で轢過し」よつて同人に前判示の傷害を負わせたという予備的訴因に相当する事実として、被告人は、右同様の「業務上の注意義務があるのにこれを怠り、折から通行中の中学生中村信子が自車前方の横断歩道を右から左へ渡り切り、更に自車左側部に沿つて後方へ歩いて行くのを自車左サイドミラーで確認し、同女が自車左側を通過するのを待つたのみで、その直後に深沢雄一(当時七歳)が自転車に乗つて自車後方から自車左側に進入して来るのに気づかず、右横断歩道の歩行者用信号機が赤色燈火になつたのを機に直ちに漫然時速約二キロメートルの速度で発進した過失により、自車左側を並進中の前記深沢雄一運転の自転車に自車左側部を接触せしめ、同所において、同人の右腕を自車左後輪で轢過し」よつて、同人に前判示の傷害を負わせたものであると認定判示し、被告人を罰金二〇万円に処する判決(以下旧審判決という。)を言い渡した。

二、被告人及び弁護人の控訴申立を受けた東京高等裁判所第一二刑事部(以下控訴審という。)は、訴訟手続の法令違反の論旨を排斥したうえ、旧審判決が判示した業務上の注意義務があることも肯認して法令の解釈適用の誤りの論旨も採用しなかつたが、「被告人の右注意義務の懈怠をいうためには、被告人車の発進時に被害者の深沢車が現に被告人車の左側にあつたか、あるいは被告人車の左側に進入しようとしている状態にあつて、それを被告人が現認しうる状態にあつたことが前提となるところ」、旧審が取調べた証拠による限り「被告人は自車を発進するにあたり深沢車を確認しえたと断定することはできず、さらに自車前方や右側方の安全確認をしなければならない被告人が自車左側路肩部分に新たに進入して来る自転車等のあることを予測するのは極めて困難であり、そのように期待することも相当でない」から、「被告人の過失を認めた原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな重大な事実の誤認がある」として旧審判決を破棄し、当庁に差し戻す判決(以下控訴審判決という。)をした。

三、差し戻しを受けた当裁判所(以下当審という。)は、右控訴審判決が破棄の理由とした事実上の判断に拘束されるのであるが、右の破棄判決の拘束力は、破棄の直接の理由、すなわち旧審判決に対する消極的否定的判断についてのみ生ずるものであり、その消極的否定的判断の前提或いは裏付けとなつている積極的肯定的事由についての判断は破棄の理由については縁由的な関係に立つにとどまり、なんら拘束力を有するものではない(最高裁判所昭和四三年一〇月二五日第二小法廷判決)。

そこで、当審としては、控訴審判決(その過失理論及び判断過程には理解し難いところがある。)の事実上の判断のうち、本件事故につき被告人に注意義務違反、すなわち過失があると認定した旧審判決の判断を否定する範囲において拘束されるが、その判断の前提となつている本件事故の態様が旧審判決の認定したとおりであることを肯定する部分には拘束されないものであり、この点に関し、右の部分も拘束力があるようにいう弁護人の主張は失当である。

そして、前記のとおり、旧審判決は、本位的訴因を排斥し、予備的訴因につき有罪と認め、この判決に対し、被告人側だけが控訴を申し立てたのであるが、もとより前記本位的訴因と予備的訴因は単純な一罪について訴因として両立し得ない関係にあるものであるから、本位的訴因を排斥した点につき検察官が控訴申立てをしなかつたとしても、その部分が以後当事者の攻防の対象から外れるものということはできず、最高裁判所昭和四六年三月二四日大法廷決定及び同昭和四七年三月九日第一小法廷判決の趣旨は本件に及ばないものというべきで、控訴審判決により旧審判決は全部破棄されたものであるから、当審としては、旧審判決前の状態において、本位的訴因及び予備的訴因をいずれも審判の対象とすることができるものと解すべきで(最高裁判所昭和三〇年一一月三〇日第二小法廷決定、同昭和四八年三月二二日第一小法廷判決参照。)、検察官も当審第一回公判において、本位的訴因及び予備的訴因を維持する旨陳述しているので、

本位的訴因を審判の対象としても、被告人に対し不意打ちを与えることにはならないというべきである。

第二、本件事故の態様

一、前掲証拠によると、本件事故現場は、千葉県習志野市大久保方面から同県船橋市宮本方面に向け東西に走る千葉県道五一二号線(以下東西道路という。)が同市前原西一丁目三六番八号先において、北行する国道二九六号線(幅員約七メートル・通称成田街道)と南行する小路(幅員約二・六メートル・以下本件小路という。)がほぼ十字形に交わる交差点付近であり、右の東西道路のうち、東方部分は車道幅員約九メートルで、両側に約二・八メートルの歩道が設けられているが、右交差点の西方部分は、両側歩道部分がなくなり、東西道路の南側端が本件小路の西側端と交わる地点から道路中央寄りに移つて幅員が約六・一メートルに狭まり、その両側に幅員約〇・五メートルの有蓋側溝があつて、両側端の設置物と設置状況が同じでないため必ずしも一定しないが、人車通行のための有効幅員は約七・三メートルであり、右交差点の東側、西側及び北側の各出口に幅員約四メートルの横断歩道が設けられ、東西方向へ進行する車両及び南行車両の対面する信号機並びに右交差点東側及び西側各出口に設けられた横断歩道の歩行者用信号機が設置されている。

そして、前掲証拠によると、被告人は、前判示日時ごろ、長さ一〇・八五メートル、幅二・四八メートル、高さ二・九メートル、車両総重量一九・八五トンで、鉄材約一〇トンを積載したキヤブオーバー型の大型貨物自動車(以下本件自動車ともいう。)を運転中、交通渋滞のため、前記西側出口の横断歩道(以下本件横断歩道という。)の交差点内側の直前で一旦停止して発進した際、深沢雄一(昭和四六年三月三日生)が乗つている子供用二輪自転車(車輪の大きさ二〇インチ)に自車が衝突し、そのため同人は路上に転倒したうえ、本件自動車の左後輪で右上腕部外側付近を轢かれ、これにより同人は左右側頭部打撲擦過創、胸部・腰部・腹部打撲症、右背部から右上肢の皮膚剥奪創、右上腕骨骨折及び右肩胛骨骨折の傷害を負つたことが認められる。

二、ところで、本位的訴因の事故の態様は、被告人が運転する大型貨物自動車の左前部を前記交差点の西側出口に設けられている横断歩道を右(北)から左(南)に横断中の深沢雄一運転の前記自転車に衝突させて転倒させたというものであるが、旧審証人深沢雄一に対する裁判所の尋問調書(以下には旧審証人深沢雄一の尋問調書と表示する。以下同種の証拠は同じ方法による。)、深沢雄一の司法警察員に対する供述調書及び司法警察職員作成の昭和五四年四月一三日付実況見分調書(以下月日だけを示すものは、いずれも昭和五四年のそれをいうものである。)によると、深沢雄一は、本件当日時、友達の家から自転車に乗つて帰宅途中、本件横断歩道を北から南に横断し、横断を終わろうとしたころ、自動車に衝突されて転倒したと供述している。そこで、以下には右深沢雄一の供述の信用性について、特にその供述の起源及び構造の分析をもとにして検討する。

(一) まず、深沢雄一(以下雄一ともいう。)の個人的特性についてみるに、深沢雄一及び深沢規夫の司法警察員に対する各供述調書、旧審第六回公判調書中の証人阿野美幸の供述部分によると、雄一は、船橋市前原西二丁目九番一一号の住所地で診療所を開業している医師深沢規夫の長男で、本件事故当時約七歳一一か月の小学二年生であり、学業成績もクラスで五番位で、性格上も可成り良い評価を得ており、旧審証言当時は約八歳一一カ月の小学三年生であつたことが認められる。

(二) 前記深沢雄一の供述中、雄一が本件事故当時友達の家から帰宅途中であつたという部分については、同人の司法警察員に対する供述調書の一部が被告人側の不同意のため取調べられていないので、本件の証拠として現われた深沢雄一の供述としては、前記証人尋問調書中の供述が最初で唯一のものであり、この部分は極めて簡単な問いと答えに終つているので、右の供述部分を裏付ける証拠を吟味するに、旧審証人岩上初江の尋問調書及び当審証人岩上初江の第二回公判廷における供述(以下当審証人岩上初江の第二回公判供述という。以下同種の証拠は同じ方法による。)によると、岩上初江は、深沢雄一が本件当日の午後二時半か午後三時ころ、赤い自転車に乗つて船橋市前原西一丁目二番六号の岩上方に同級生の岩上晃男を訪ねてきて、同家庭先などでこま回しをして遊んでいたが、雄一が時刻を聞くので、柱時計を見て四時八分であると教えたところ、同人はそれから約一〇分位遊んだのち帰つたものの、同家の柱時計は五分位進めておくこともあるので、深沢雄一が帰つた時刻は午後四時一三分か同一八分であると供述しているところ、弁護人は右の事実が本件当日と同じ日の出来事であるかどうか疑問であると主張し、旧審判決も同様の疑問があるとしているが、右の証人岩上初江の旧審尋問調書及び当審第二回公判供述によると、岩上初江は、本件事故当日の翌日息子岩上晃男が学校から帰つてきて、深沢雄一が交通事故にあつたことを聞き知つたことから、前記の雄一が遊びに来て帰つた日を本件事故当日のこととして記憶しているというのであつて、その時間の点も右晃男が学校から帰宅した時間を起点として供述しているもので、具体性があるうえ、岩上初江は、自己が雄一を送つてやれば事故にあわなかつたものという若干の自責の念のもとにこれらを記憶しているというのであり、同人が証人尋問を受けるに至つた経緯にも誘導や作為によつて事実を歪曲し或いは捏造したと疑うような状況は全くなく、同人の当審第二回公判廷における供述態度をも併せ考えると、旧審及び当審証人岩上初江の前記供述は本件事故当日の事柄を供述したものとして十分措信することができるものといわなければならない。なお、弁護人の旧審における主張には、右の証人岩上初江の供述中、雨が降つているのに子供に庭でこま回しをさせるのは不自然であるという部分があるが、当審証人岩上初江及び同深沢美紀子の第二回公判各供述によると、本件当日は霧雨で、降つたり止んだりの状態であり、岩上方には庭先にコンクリートのベランダがあつて、こま回しができるというのであつて、右の弁護人の主張する疑問はとるに足りない。

そこで、以上のところからすると、深沢雄一は、本件事故の直前ころ、前記岩上方から自宅に向つたものと認められるところ、証人岩上初江の旧審尋問調書及び当審第二回公判供述、当審証人深沢美紀子の第二回公判供述並びに司法警察職員作成の一月三一日付実況見分調書によると、岩上方は前記交差点の西北西約三〇〇メートルの地点にあり、深沢雄一方は右交差点の東南東方向にあるので、同人は、本件事故当時岩上方から帰宅途中前記交差点付近にさしかかつたものという蓋然性が非常に高いといわなければならない。

(三) 次に、前記深沢雄一の供述中、自転車に乗つて本件横断歩道を北から南に横断した際に自動車に衝突されて転倒したという部分については、前記四月一三日付実況見分調書において、深沢雄一はその旨の指示説明をし、前記の同日付司法警察員に対する供述調書において、「僕が自転車で走つたときと自動車にぶつかつてひかれたときのことは今日交通事故のあつた場所でお巡りさんに話したとおりです。」と供述しているところ、旧審第三回公判調書中の証人今泉清の供述部分(以下旧審証人今泉清の第三回公判供述記載という。以下同種の証拠は同じ方法による。)によると、右の指示説明が深沢雄一の警察官に対する最初の具体的な供述であるというのであるが、証人深沢美紀子の旧審第五回公判供述記載及び当審第二回公判供述、旧審証人深沢規夫の尋問調書及び第二回公判供述記載、旧審証人今泉清及び同加藤和男の第三回公判各供述記載によると、雄一の母深沢美紀子は、本件事故直後雄一が最初に運ばれた佐藤外科医院で、同人から「友達の家から帰るとき、青信号で横断歩道を渡つたのにぶつつけられた。運転手の荷台(運転台のことと思われる。)が高くて見えなくてぶつつけられた。」と聞いたというのであり、本件捜査を担当した警察官今泉清及び加藤和男は、本件事故の翌日、雄一が入院していた三橋整形外科病院において、同人から事情聴取をしようとしたが、同人は重傷による苦痛のため応答することができず、「信号が何色のとき横断歩道を渡つたか。赤か、黄色か、青か。」と尋ねたところ、青かといつたときかすかにうなずいたというのであり、雄一の父深沢規夫は、その日時は必ずしも明確でないが、本件後一週間から二週間の間に、入院中の雄一に尋ねた際、同人が信号が青になつて横断歩道を渡り切るか切らないうちにガシヤンと当つたというのを聞いたというのである。

右各供述のうち、証人深沢美紀子の供述について、弁護人は、深沢美紀子は雄一の母親であつて、重大な利害関係を有することから虚偽の供述をしているものであると主張しているが、証人深沢美紀子が雄一の母親であるからといつても、本件事故直後佐藤外科医院で雄一から事故の状況を聞いた事実がないのに、これを聞いた旨全く虚偽の供述をしているものという疑いはなく、証人深沢美紀子の旧審第五回公判供述記載及び当審第二回公判供述によると、深沢美紀子は、本件事故直後、雄一が告げた電話番号によつて掛つて来た電話により事故の発生を知り、佐藤外科医院に駆けつけたもので、本件事故の状況はもとより、その場所さえ知らず、いわば白紙の状態で、雄一に対し、どうしたのかと尋ね、同人も簡単に答えたもので、その言葉は、青信号で横断歩道を渡つていたという小学二年生でも容易に表現し得るものであつて、深沢美紀子がたとえ場合によつては監護上の責任を問われる利害関係のある母親であるとしても、他の言葉を右のように聴いたものと有利に曲げて解釈するような言葉ではなく、同人の当審における供述態度を併せ考えると、証人深沢美紀子の前記供述は、一概に信用性がないとして排斥することはできない。そして、深沢美紀子が本件事故直後佐藤外科医院で聞いた雄一の供述は、まさに本件事故の態様に関する雄一の原始供述であつて、前記のとおり、純真な児童であり、事故直後の重傷を負つた状態にあつた雄一が自己の落度に対する非難を免れるため、しかも打算的に事実に反する虚偽の供述を母親にする余裕があつたものとは到底考えられない。もとより、深沢美紀子は、前記のとおり、本件事故の状況につき白紙の状態であつたのであるから、雄一に対し暗示的或いは誘導的な問いを発したとも考えられない。

そして、旧審証人深沢雄一の尋問調書によると、深沢雄一は、本件事故現場付近において、裁判官から「事故当時君が歩いたとおりに歩いて下さい。」といわれ、前記東西道路の北側を西方から前記交差点に向け進み、さらに右交差点の北西の角地にある商店前の歩道風の空地を進んで成田街道を横断する姿勢で東方を向いて立ち止つたが、裁判官から「そのとき正面の信号は赤だつたのですか。」と問われ、「うん。」と答えたのち引き返し、右交差点の西側出口に設けられた本件横断歩道の北側の地点に立ち、「この前の方の信号が青だつたので渡つた。」と供述しており、右のうち、雄一が成田街道を横断する姿勢で東方を向いて立ち、東西道路を西方から東方へ向う人車の対面する信号機の表示を見て、本件横断歩道の北側の地点まで引き返したという部分は、雄一の特異な行動であつて、両親を始め、他の者の暗示又は誘導の疑いを容れる余地のない事実であり、雄一が本件横断歩道を北から南に横断した事実と特別に結びつくところの同人の現実の体験を現わす事実であると認められる。

したがって、証人深沢雄一の前記供述中、雄一が自転車に乗つて本件横断歩道を北から南に横断した際に衝突されて転倒したという部分の現実性もたやすく否定することはできない。

なお、被告人の旧審第七回公判供述記載には、深沢雄一が、前記交差点の東方出口付近に設けられている横断歩道を北から南に渡り、東西道路南側を船橋市宮本方面に進行していた際に事故にあつたといつていることを警察官今泉清から聞いた旨の供述があるが、旧審証人今泉清の第三回供述記載によると、今泉清が被告人に右のような事実を話したことはないことが認められ、本件全証拠を検討しても、雄一が右の被告人が供述するような進路をとつたことを窺わせる事実も理由も見当らず、被告人の右供述は措信できない。

三、そこで、証人深沢雄一の前記供述とそごし、その信用性を否定するような客観的事実の有無につき検討する。

弁護人は、本件事故直後の深沢雄一が乗つていた自転車の転倒位置及び状況、同人の受傷部位等からして、証人深沢雄一の供述は信用できない旨主張し、旧審判決及び控訴審判決もほぼこれを肯認している。

そこで、深沢雄一及び同人の乗つていた自転車の本件事故直後の転倒位置とその状況についてみるに、旧審証人深沢雄一の尋問調書によると、深沢雄一は衝突後のことは全く覚えていないというので、右の転倒状況についての供述はなく、前記一月三一日付実況見分調書によると、被告人は、深沢雄一の自転車は本件自動車のダブルタイヤが前後に二組並んでいる後輪付近に、方向は本件自動車と同じではあるが、自転車の前輪の方が自動車から離れ、ほぼ四五度開いた状態で、右側を下にして転倒していた旨説明し、雄一が後輪の二組のダブルタイヤの間に右の自転車にまたがるようにして倒れていた旨説明しており、被告人の司法警察員に対する二月一日付供述調書では、それに付加し、雄一が右腕を下にし、頭を船橋方向(西方)に、顔は左にそむけて倒れていた旨供述し、被告人の旧審第六回公判供述記載並びに当審第二回及び第四回各公判供述でも同旨の供述をし、旧審証人中村信子の第四回公判供述記載によると、自転車は西方向きで、深沢雄一はこれにまたがるように倒れていたというのであり、雄一が乗つていた自転車は、本件自動車との角度はともかく、前輪が西方、後輪が東方にある形で、本件自動車と道路南側端のガードレールとの間に、右側を下にして倒れており、雄一もほぼ右側を下にする形で、頭部は西方に向け倒れていたことが窺われる。

そこで、前記の証人深沢雄一の供述のとおり、本件横断歩道を北から南に横断し、その横断を終るころ本件自動車に衝突された場合、自転車及び深沢雄一が右のような形で転倒するか疑問であるところ、弁護人は、雄一の乗つた自転車が衝突後左回りに一回転しなければ自転車が西方を向いて転倒することはないとの前提のもとに、自転車の大きさと本件自動車の左側から道路南側端のガードレールまでの間隔からして、右のように自転車が一回転することは不可能であるから、本件事故の態様は異なると主張するのであるが、右主張の前提である自転車が左回りに一回転しなければならないというのは、弁護人が措信しないとする旧審証人深沢雄一の尋問調書中、裁判官の「ぶつかつたとき自転車はどつちの方向を向いていたのですか。」との問いに対し、同証人が衝突地点において、その方向を示したという記載を根拠とするもので、右の記載は司法警察職員作成の三月二〇日付実況見分調書添付の交通事故現場見取図上「真下より約四五度右方に回つた方向を示した」とあつたのを「真下方向より約四五度習志野方面に回つた方向を示した」と訂正されているもので、その訂正は内容的に方向が九〇度変つてしまう重要な訂正であることはしばらくおき、右尋問調書によると、証人深沢雄一は、前記の衝突の際の自転車の方向のほか、「どこで車とぶつかつたのですか。」「そのとき君にぶつかつた車の一番前はどの辺りにあつたのですか。」と問われて、一応これらに答えているが、同証人は、「君はふらついたのですか。」「君はぶつかってからどういう風に倒れたのですか。」「君が倒れた位置はどの辺りですか。」と問われて、いずれも覚えていない旨答えており、これらの事項は、前記の自己が横断歩道を横断していたか否かという行動体験としてそのまま記銘される事柄と異なり、自転車に乗つて進行中に自動車に衝突したという瞬時の細部にわたる事柄であつて、これを正確に観察、記銘するのは、特に七歳一一か月位の児童には非常に困難であり、しかも右証言当時本件事故から約一年余を経ているので、前記質問事項のように衝突時の細部にわたる事柄については、その後に記憶の更新を助けるような状況もなかつたのであるから、同証人が覚えていないというのはむしろ自己の記憶に忠実に供述したものと認められ、同証人が衝突時の自転車の方向、衝突地点、その時の自動車の位置を問われて指示したのは、かえつて、倒れる前は覚えているだろうという暗示と質問には答えなければならないとの意識から敢えて答えたのではないかと考えられ、前記のように自転車の方向についての指示が単に一回の発問に答えたに過ぎないことも併せ考え、その供述の正確性に疑問があり、直ちに採用することはできない。

そして、証人深沢美紀子の旧審第五回公判供述記載及び当審第二回公判供述によると、雄一が運転台が高くて見えなかつたといつたというのであり、また旧審証人深沢規夫の尋問調書によると、雄一が運転手さんは僕の方をちつとも見てくれなかつたといつたというのであるが、右の雄一の供述部分は、雄一が自転車に乗つて横断歩道を横断し終ろうとした際、本件自動車が発進して左横から接近し、逃れようとして逃れられなかつた心情を現わしているものと解され、このような場合、自転車乗りは、とつさにハンドルを右に切ることも自然の行動として理解され、また左側から衝撃を受けた自転車乗りは、倒れまいとしてハドルを右に切ることも通常あり得るところであり、若し雄一がこのようにしてハンドルを若干でも右に切れば自転車が前記のような形で転倒することも十分あり得るといわなければならない。

更に、自転車が右側に倒れる場合、右足のペダルが支点となるので、その位置によつては自転車自体の方向が変わることがあり得ることも経験上認めることができる。

したがつて、自転車が前記のような形で転倒したことと深沢雄一が横断歩道を横断し終わろうとした際、本件自動車に衝突されたこととは必ずしも矛盾するものとはいえない。

次に、深沢雄一の本件事故による受傷は、前記のとおりであるが、医師佐藤希志雄作成の診断書写によると、雄一は脳震盪も起したことが認められ、当審証人深沢美紀子の第二回公判供述、当審証人今泉清の第三回公判供述及び被告人の旧審第六回公判供述記載によると、本件事故当時雄一はセーターの上に厚地の生地のやや長めのコートを着ており、本件事故により右のコートも可成り破れていたことが認められるので、この事実を併せ考えると、前記傷害のうち、左右側頭部打撲擦過創、胸部・腰部・腹部打撲症は雄一が転倒した際に路面或いは自転車の一部などに打ち当てて生じたものであることが窺われ、右背部から右上肢の皮膚剥奪創は雄一が転倒した後、本件自動車の左車輪でコートを巻き込み、左上腕外側を圧するように轢かれて生じたものと認められ、右上腕骨骨折及び右肩胛骨骨折は転倒或いは車輪で轢かれた際に生じたものであろう。そして、右のような受傷は、雄一が自転車に乗つて本件横断歩道を横断し終ろうとした際、本件自動車に衝突されて右側に倒れ、頭を西方に、足を東方に向け、やや斜めに東西道路に沿うような形で転倒し、脳震盪を起しているうち、進行して来た本件自動車の左車輪で右上腕外側を轢かれたものという可能性が強く、仮に雄一が本件自動車の左側を並進中に右に倒れたものとすれば、前記一月三一日付実況見分調書によると、本件自動車の左側の前輪と後輪との間のサイドガードの横棒は一本(旧審の検証調書によるとその後三本に改造されている。)であつたことが窺われるので、雄一は本件自動車の下に頭部を突つ込んで、これを轢かれる可能性が大きいといわなければならない。弁護人は、旧審において、右のような可能性に備えて、雄一は本件自動車の左後輪の前後のタイヤの間に巻き込まれたように主張しているが、右の主張は、前記の雄一の転倒状況と受傷状況からして肯認し得ないことはいうまでもない。

したがつて、深沢雄一の受傷状況も、同人が自転車に乗つて本件横断歩道を横断し終ろうとした際本件自動車に衝突されて転倒した事故であることとそごするものとはいえない。

四、そこで、証人深沢雄一の前記供述とそごする証人中村信子の旧審第四回公判供述記載及び当審尋問調書中の各供述部分につき検討する。

旧審証人中村信子の第四回供述記載によると、中村信子が本件当日学校から帰宅途中、前記交差点の西側出口に設けられた横断歩道北側に来て、信号待ちをし、対面する歩行者用信号機が青色になつたので、右横断歩道を北から南に渡り、左折して東西道路の南側を東方に歩行中、横断歩道から三、四メートルのところに来た時、少しずつ動いている卜ラツクの真中より後ろの方で小学校二年生位の自転車に乗つた男の子とすれ違い、二、三メートル位歩いて何となく振り返つたら、横断歩道の西側の端から五、六メートルのところに男の子がトラツクに轢かれ、自転車にまたがつたまま倒れていたというのである。そこで、以下に右供述の起源及び構造を分析し、その信用性を検討する。

証人今泉清の旧審第五回公判供述記載及び当審第三回公判供述、当審証人中村信子の尋問調書、中村信子の司法警察員に対する供述調書、司法警察職員作成の三月二〇日付及び同月二四日付各実況見分調書、司法警察員作成の同月二〇日付写真撮影報告書並びに本件記録によると、中村信子は、本件当日は、事故直後現場に来た氏名不詳の警察官に氏名、住所及び電話番号を伝えただけで帰宅したこと、その後本件捜査を担当した警察官今泉清が電話で同女に聞いたところ、「みんな事故は見ていない。」と答えていたこと、今泉清は、三月二〇日中村信子に本件事故現場への出頭を求めて事情を聴取し、同日午後四時から、同女立会のもとに、本件事故直前同女が歩いた経路、事故直後の目撃地点等の指示説明を求めて実況見分をし、補助者に写真を撮影させたが、時間的に余裕がなかつたので、供述調書は作成せず、右の実況見分の結果は翌日又は翌翌日に調書に作成したうえ、同月二四日再度中村信子に本件事故現場への出頭を求めたが、同女が到着する前に、右現場付近の空地に駐車中の事故処理車内で、三月二〇日の事情聴取及び実況見分の結果を資料として中村信子の供述調書を第一項から第七項まで記載し、同女が出頭したので、同日午前一〇時二〇分から、同女の立会のうえ、三月二〇日の実況見分の結果を確認したのち、同女が対面する歩行者用信号機が青色になつて横断を始めてから東西道路を東方に進行中振り返つた地点までの所要時間を測定して、実況見分を終え、中村信子に確認して前記供述調書の第八項及び第九項を記載し、右供述調書を同女に読ませたうえ、その末尾に署名指印させたこと、検察官は、旧審第一回公判において、中村信子の三月二四日付供述調書を他の証拠と共に証拠調の請求をしたが、被告人側がその第八項を不同意としたので、同意部分のみ証拠調べを受け、中村信子の証人尋問の請求をして採用されたが、所在不明のため召喚状の送達ができず、旧審第二回公判において、被告人側が前記供述調書第八項を同意して証拠調べが行われたので、中村信子の証人尋問請求を撤回し、採用も取り消されたこと、ところが旧審第三回公判において、被告人側が中村信子の証人尋問の請求をして採用され、旧審第四回公判において、検察官も再度同人の証人尋問の請求をし、同公判において証人尋問が実施されたことが認められる。

そこで、中村信子が右証人尋問の前に捜査官に対してした供述としては、前記三月二〇日付及び同月二四日付各実況見分調書中の説明並びに同日付供述調書中の供述だけであるが、右三月二〇日付実況見分調書には、立会人中村信子の説明として、(1)本件横断歩道を横断した地点、(2)その時他に横断者はなかつたこと、(3)横断を終つて東方に向け歩行中振り返つた地点と子供が自転車にまたがつて倒れていたこと、(4)運転手が来て子供を助け起したこと、(5)その時子供は痛い痛いと叫んでいたこと、(6)貨物自動車が停車していた地点が記載されているが、自転車に乗つた男の子とすれ違つた旨の説明はなく、それを窺わせる状況の記載もない。ところが、旧審証人中村信子の第四回公判供述記載中には、弁護人が「あなたはこの日警察の方と話しましたか。」と問われ、「はい。」と答え、更に「そのとき先程いつた様に男の子とすれ違つたことを警察の人に話しましたか。」と問われ、「はい。」と答えている部分があるが、右の質問中「この日」というのは本件事故当日を指しているところ、当審証人中村信子の尋問調書によると、中村信子は本件事故当日警察官に事故の状況を話したことはないというのであるから、右の問答は誤解によるものであり、また旧審証人中村信子の第四回公判供述記載には、裁判官から「今話した様にすれ違つたということをそのとおり警察官に話しましたか。」と問われ、「はい。」と答えている部分があるが、その問答の経緯からすると、果して同女が正確に理解したうえで答えているものかどうか疑問である。これに対し、旧審証人今泉清は、第五回公判において、中村信子から、自転車に乗つた男の子とすれ違つた旨聞いた事実はないと供述しており、同証人の第三回及び第五回各公判供述記載並びに司法警察員今泉清作成の三月三〇日付交通事故事件捜査報告書によると、今泉清は、中村信子から事情聴取をし、同人の説明を得て実況見分をした三月二〇日及び同月二四日当時には、被告人の供述並びに自転車及び深沢雄一の転倒負傷状況から、雄一は自転車に乗つて本件自動車の左側を同一方向に進行していたという心証を抱いていたことが窺われるので、若し中村信子の事情聴取及び実況見分の際の説明の中に、自転車に乗つた男の子とすれ違つたという供述があれば、自己の心証を裏付ける重要な証拠として当然それを実況見分において確認して、その結果を調書に現わした筈であつて、前記実況見分調書にその記載がないことは、中村信子が今泉清に対し、自転車に乗つた男の子とすれ違つたと説明した事実はないものと認めるのが相当である。

また、旧審判決は、前記中村信子の供述調書に、供述録取の場所を「船橋警察署」と記載してあること、三月二〇日に聴取したのに、同月二四日に面前に中村信子がいない所で調書に記載したという作成過程の不適切さを指摘し、その記載内容の信用性に重大な疑問を投げかけざるを得ないとしているが、右供述調書の供述内容部分は通常の調書用紙二枚、わずか五二行の非常に簡略なもので、第一項から第三項までは前置きであり、第四項から第七項までは前記三月二〇日付実況見分調書中の説明の順序に従つて、若干の説明的供述を付加して記載されているもので、三月二四日には右の実況見分調書は完成していたのであるから、三月二〇日に事情聴取したメモと右実況見分調書の記載をもとに前記供述調書を作成しても、その正確性が格別劣るとまではいえない。問題は右供述調書第八項の「けがをした男の子は私の歩いていた前の方からはきませんし、横断歩道を渡つたのも気がつきませんでした。後ろの方から走つてきたのではないかと思いました。」という記載であるが、当審証人中村信子は、右供述調書作成の際、「自分で読みました。」と供述しており、同女は、右供述調書作成当時一五歳六か月の中学生三年生であつて、右の記載は十分理解できた筈であり、若し当時自転車に乗つた男の子とすれ違つた事実の記憶があつたとすれば、これに相反する右第八項の記載には少くとも異和感を抱いた筈であるが、旧審証人中村信子は、第四回公判において、「そのときいつたとおりと思いましたか。」と問われて、「はい。」と答えており、右のような異和感を抱いた事実は全く窺われない。したがつて、旧審判決が指摘するような右供述調書の作成過程の不適切さが直ちにその供述記載内容の信用性を左右するものというのは相当でない。

すなわち、右供述調書第八項の記載は、少くとも取調べに当つた今泉清が中村信子に対し、本件事故前に男の子を見なかつたかという質問をしたこと、同女がこれに対し自転車に乗つた男の子とすれ違つたと供述した事実はないことを現わすものであるといわなければならない。

そして、中村信子が前記の三月二〇日及び同月二四日の二回にわたる実況見分に際し、横断開始地点から振り返つた地点まで数回実際に歩いて説明したのに、その間今泉清に対し自転車に乗つた男の子とすれ違つた事実を説明しなかつたということは、その事実の存在自体に重大な疑念を抱かせるものである。

そこで、旧審証人中村信子が昭和五五年六月一三日の第四回公判において、何故に自転車に乗つた男の子とすれ違つたとの供述をするに至つたかを考えるに、被告人の当審第二回公判供述によると、被告人は旧審第四回公判前の同年六月中に弁護人と共に中村信子宅を訪れ、同女に対し「事故の時の状況を話した」というのであるが、被告人及び弁護人は、旧審第一回公判から、本件事故は被告人運転車両の左側を被害者が並行中に発生したと主張し、その後の旧審第六回及び第七回各公判においても、被告人は、自転車に乗つた深沢雄一を見なかつたとはいうものの、自車の前方も十分注意していて、深沢雄一が横断歩道を横断した事実はないとして、第一回公判における仮説的主張をあたかもそれ以外に事実はないかのように供述しているのであり、被告人が中村信子に会つて事故の状況を話した時も、自己の主張を前提として話したであろうことは容易に推測され、このことが旧審証人中村信子の供述に暗示的或いは誘導的に作用した疑いがある。すなわち、旧審証人中村信子の第四回公判供述記載を子細にみると、一二九問のうち、答えのないものが六問、単に「はい。」とだけ答えたものが五九問あるほか、問いと答えが明らかに合致しないもの、問いを正解しないまま混乱した答えをしているものがあり、同女は、右証言当時一六歳八か月の高校二年生であるが、当審における証人としての供述態度をも併せ考えると、旧審第四回公判においても、その応答振りは、質問に対してきぱきと反応して積極的に答えたものではないことが窺れ、自転車に乗つた男の子とすれ違つたというのも、弁護人から「ずっと歩いて来

て誰かに会いましたか。」という質問を受けて答えたものである。

そこで、更に男の子とすれ違つた地点及び状況についての旧審証人中村信子の供述内容をみるに、少しずつ動いているトラツクの真中より後ろの方で、普通の速度で進行して来る自転車に乗つた男の子と格別よけることもなくすれ違つたというのであるが、前記一月三一日付実況見分調書並びに旧審及び当審の検証調書によると、本件自動車と東西道路南側端のガードレールとの間隔は約一メートル前後しかなく、路面は、車道のアスフアルト、側溝の蓋、道路脇の若干高い土地から流れた土のため、平坦とはいえず、歩行者と自転車乗りがすれ違うことは不可能であるといつてよく、中村信子自身格別脇によけることもせず、自転車も普通の速度であつたというのは到底措信することができない。そこで、控訴審判決は、右の中村信子と深沢雄一がすれ違つたという地点を「ガードレールの東端を過ぎて空間が広くなつた付近と認むべき蓋然性が強い」といい、旧審判決もほぼ同様の認定のようであるが、証人中村信子が供述する男の子とすれ違つた地点は本件事故直後振り返つた地点との関係で供述するものであつて、右の振り返つた地点は、前記のとおり、三月二〇日及び同月二四日の実況見分において明確に指示し、旧審第四回公判でもほぼこれに近い地点を指示しているのであつて、このことを度外視して、すれ違つた地点のみを東方に移動させるのは不合理であるといわなければならない。

ところで、中村信子の捜査段階並びに旧審及び当審における供述中、少くとも一貫していて疑いの余地のないのは、歩行者用信号が青色になつて横断を始めたこと、或る地点で振り返つて本件事故直後の状況を目撃したということである。そして、中村信子は、本件事故現場における当審の証人尋問及び検証において、本件横断歩道の中央を横断し終つた地点から東西道路南側を約七メートル東方に進んだ地点で男の子とすれ違い、更に約五メートル進んで前記本件小路の方へ曲ろうとして体の向きを変えたとき男の子の転倒地点を振り返つた旨供述指示したが、右の振り返つた地点についての供述は従前の供述より合理性が認められる。そこで、控訴審判決のいうように、男の子とすれ違つた地点を「ガードレールの東端を過ぎて空間が広くなつた付近」とすると、中村信子は、本件事故が発生した時には本件小路を相当進んでいることになるが、前記一月三一日付実況見分調書によると、本件小路に入つた場合には、前記交差点南西角地の障壁のため、本件事故発生地点を見通すことができないことが認められるので、中村信子が振り返つても男の子の転倒状況を目撃することはできないことになるのである。ことに旧審判決が認定し、控訴審判決が肯認しているように、中村信子が被告人運転の本件自動車の左側を通過したのち、被告人が毎時約二キロメートルの速度で発進し、そのままの速度で進行したとすると、前記一月三一日付実況見分調書及び当審の検証調書によれば、被告人運転の本件自動車は発進してから事故が発生して停止するまで約一二・八メートル進行しているのであるから、その間中村信子が歩き続けたものとすると、その歩速を敢えて計算するまでもなく、本件小路を相当進んだ地点に達していたことになるので、前記のような旧審判決及び控訴審判決の認定は不合理であるといわなければならない。

すなわち、前記の証人中村信子の男の子とすれ違つたという供述を採用する限り、右のすれ違つた地点も同証人の供述するところによるほかなく、そうとすれば、前記のように、中村信子が自転車に乗つた深沢雄一とすれ違うことは不可能というほかないので、右のすれ違つたという事実の存在自体非常に疑わしいといわなければならない。

そこで、証人中村信子の男の子とすれ違つたという事実の記憶について検討するに、証人中村信子は、旧審第四回公判において、子供の服装については記憶がないと答えながら、「その男の子はいくつ位でしたか。」という問いに対し、「小学校二年生位です。」と答えているが、右の答えの仕方、内容からすると、これは本件事故後の知識で補修された疑いが強く、当審の証人尋問において、中村信子が「傘もよけなかつたんですか。」という問いに対し、「はい。気がついたら通り越していたんです。」と答えているところからすると、同女には男の子とすれ違つた事実について記銘のきつかけとなるような事実の記憶がないことが認められ、前記のような同女の供述の起源等を併せ考えると、同女の男の子とすれ違つたという記憶は、本件事故直後に目撃した自転車の転倒方向、旧審第四回公判における証言前に被告人から聞いた事故の状況をもつてその記憶を埋め合わせ、次第に歪曲した記憶を形成したものである疑いを抱かざるを得ない。

したがつて、前記の証人中村信子の男の子とすれ違つたという供述部分は、信用性を認めることができないので、前記の証人深沢雄一の供述を採用することの妨げとなるものではない。

五、最後に、仮に前記の証人深沢雄一の供述のように、深沢雄一が本件横断歩道を横断したものとすれば、被告人は、本件自動車で本件横断歩道の直前から発進するにあたり、雄一を見落したのかどうかについて検討する。

被告人は、司法警察員に対する二月一日付供述調書では、本件横断歩道の直前で停止した際、女子高校生が右横断歩道を右から左へ横断し、自車の左側を後方に歩いて行つたのは左サイドミラーで確認したが、自転車に乗つた子供の姿は前にも後ろにも発見できず、間もなく前車が少しずつ進んだので、私も発進したと供述し、検察官に対する七月二八日付供述調書では、発進しようとした際、本件横断歩道を横断する人や車の有無を十分確かめないで発進したため事故を起したもので、被害者が横断歩道を右から左に横断したものとすれば、私が被害者を見落したため起きた事故であると思うと供述し、検察官に対する一〇月一二日付供述調書では、前方の車に従つて発進しようとした際、深沢雄一が運転する自転車に気づかず、自車の左前部を衝突させたもので、横断歩道を横断する人や自転車等に対し十分注意していなかつたため、被害者に気づかなかつたと供述し、発進にあたり前方注視を十分尽さなかつたこと、深沢雄一を見落す余地があつたことを認めており、旧審第一回公判においては、発進する前に横断歩道上を確かめたことがありますと供述し、昭和五五年二月一二日本件事故現場付近においても、女学生が横断歩道を渡つて交差点の南西角まで行くのをその間バツクミラーで見ていて、前方は見ておらず、それから左右を見て進みましたと供述し、なお横断歩道を横断する深沢雄一を見落す余地があつたことを認めていたが、旧審第六回公判においては、前後左右を本当に注意しながら走つており、中村信子さんを自動車の最後部あたりまでバツクミラーで見ていて、横断歩道の信号が赤に変つてから前後左右を注視して発進したと供述したのち、弁護人から「横断歩道のところに誰かいましたか。」と問われ、「誰もいなかつたと思います。」と答えたのに、再度問われるや、「誰もいませんでした。」と断定的に答え、また「後方から誰か来る人がいましたか。」と問われ、一旦「いなかつたと思います。」と答えたものの、再度問われるや、「誰も来ていませんでした。」と断定的に答えたのち、更に問われて「バツクミラーばかりを見ているわけではありませんから、後から来たかどうかはつきりいえません。」と訂正しており、この間の弁護人と被告人の問答は、一面では、深沢雄一は本件横断歩道を横断したものではないという主張に合致するように、他面では、後方から雄一が来た可能性があるように供述を有利に変化させていることを現わしており、また旧審第七回公判においては、左右を見て発進した旨供述し、旧審第八回公判においては、前方左右を見て発進した旨供述し、後方を確認したことを殊更に除き、後方から雄一が進行して来た可能性を強めており、更に当審第四回公判でもほぼ同様の供述をしているのであるが、被告人の右のような一連の供述によつても、深沢雄一が本件横断歩道を横断したことを否定できるほど被告人が前方注視を続けていて、これを見落した事実がないとはいえない。

なお、弁護人は、被告人運転の本件自動車が本件横断歩道の直前の停止地点から発進した後の速度は、毎時二、三キロメートルであつたとして、被告人の注意深い運転を強調するところ、被告人の検察官に対する七月二八日付供述調書には、被告人は時速二、三キロメートルで発進したとの記載があるが、前記一月三一日付及び三月二四日付各実況見分調書並びに当審の検証調書によると、被告人が旧審第六回公判において供述するように、本件横断歩道の歩行者用信号機の表示が赤色の燈火に変つて発進したとすると、中村信子はその時右横断歩道の中央を渡り終つた地点から東方約六メートルの地点に達しており、同地点から中村信子が振り返つた地点までは約六メートルであり、その間を同女が歩行するに要する時間は約八秒であり、被告人運転の本件自動車はその間に約一二・八メートル進んでいるので、これだけを基にして考えても、被告人が、発進した当初はともかく、その後も毎時二、三キロメートルの平均速度で進行したものといえないことは明らかである。

(法令の適用)

一、罰条 刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号

二、刑の選択 罰金刑を選択

三、労役場留置 刑法一八条

四、訴訟費用の負担 刑訴法一八一条一項本文

よつて、主文のとおり判決する。

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